【ロシア】200日の漂流―モスクワ大学留学記2010-2011

2011年03月08日

はじめての一人旅―クラクフ~プラハ

※パソコンの調子が悪く、更新ができない状況が続いていました。

 3月5日。4時起床。目覚ましは6時に仕掛けていたのだけれども、なぜか目が覚めてしまった。ボーっとしながら、チェックアウトの支度をして、7時に朝食。その後チェックアウトして、荷物を駅に預ける。出発まで1時間以上あったので、旧市街地を散歩することにした。
 朝の8時ごろだから、お店も開いていないし、人も少ない。でも散歩には最適だった。程よくひんやりとした空気に、朝日がさす。心地の良い気分のまま、旧市街広場を抜け、結局ヴァヴェル城の丘まで行き着いてしまった。思いっきり空気を吸った後、踵を返した。
 帰りの道は、ふと今後について考えてみた。今クラクフの旧市街地を歩いているということさえ忘れるほどに、思考に熱中した。いや熱中できた。座ってじっと考えるよりも、歩いて考えるほうが、ずっと頭が働くのでは、と思ったときに、多くの詩人や音楽家、哲学者が歩きながら思索していたことを思い出した。

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 駅に戻った。列車の時刻表を眺めて、確認していると、あるおじさんに「アウシュビッツへ行くのかい?」と問われたので、いいえ、と返した。その数分後である。今度は別のおじさんに声を掛けられた。
「どこに行くんだい?アウシュビッツ?」
「いえ、カトヴィツェ(プラハ行きの乗り換え駅)です」と口走ってしまった。
俺の車でどうだい、というので、ああタクシーの勧誘か、と気付いた。

「君日本人だよね?俺はよく日本人をアウシュビッツへ連れて行っているのさ。」と言いながら、コンニチハ、アリガトウと日本語を披露してくる。しかも、
「アウシュビッツの博物館にいるミスター・ナカタニ(実際に博物館で働かれている中谷剛さんのことです。旅行本にも紹介が書いてありました)とは知り合いなんだよ。」とまで言ってくる。

「でも僕はもう切符を買っていますので、車は結構です」と返すと、さすがに驚いたみたいだが、
「俺の車のほうが早く着くぜ。今なら200(5000円くらい)ズウォティだよ。かなりお得なはずだよ」と引き下がらない。
「正直言うと、今ポーランドのお金を持っていないのです。だって、もう列車に乗るだけだから必要ないんですもの」とこちらはとどめをさしに行きます。
「ユーロも、ドルもかい?」
「ええ、全く持ってないです。(ルーブルならいっぱい持ってるんだけどw)」と突っ返した。
 もう面倒くさいにもほどがあったので、もう行くから、と言ってその場から立ち去った。そして駅にいると、また絡まれかねなかったので、予定より早めにクラクフを発った。
 9時5分にクラクフを出発した列車は、11時前にはカトヴィツェに着いた。プラハ行きの列車は12時15分だったので、しばらく駅で待つ必要があった。
 また時刻表を眺め、確認をしていると、再び声を掛けられた。今度は宗教の勧誘だった。ただまあ、平和的な勧誘だったので、話を聞くだけで何とかなった。駅の待合場は、人も多く、声も掛けられかねられなかったので、30分以上も時間があったがホームで待つことにした。
 人は少なかった。空いているベンチにゆっくりと腰を下ろした。気温はおそらく5度くらいだったろうが、陽が照っていたので暖かかった。風もあった。僕の黒のコートが日光を吸収して、熱を持ち、それを風が冷やしてくれる。こんな春に近い感覚は久々だった。今まで、モスクワのシャレにならない冷たい風に吹かれていた身としては、もう天国に近かった。そのまま眠ってしまいそうだった……。

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 列車がやって来た。早速乗って、ゆっくりしていたのだが、切符を切りに車掌さんが来たときに、違う座席に座っていることが発覚。あわててちゃんとした席にたどり着いた。はじめ、僕はブダペストへ行ってしまう車両に乗っていたらしい……。恐ろしい。
 身の周りも落ち着いてきたので、今こうやって記事を書いている。

 列車では終始一人だった。一つの部屋に6つ座席があったのだが、ほとんどの時間はポツンと座っていた。一区間だけチェコ人の人が乗ってきて、少しだけ話した。カトヴィツェからプラハまでは、およそ4時間半の旅だった。その間に、今度は『斜陽』を読了した。

 プラハに着いた。もう夕方だったので、とりあえずホテルに直行する。――プラハのホテル、といえば少し大変な事情があった。
 旅行前にネットで予約をして、安心しきっていたのだけれども、ちょうどワルシャワにいるときに、突然携帯に着信が入った。「○○ホテルですが……」といきなり流暢な英語が耳に飛び込んできたものだから驚いた。しかしながら、国際電話は通話料が高いので、すぐにプリペイドがなくなってしまい、電話が切れてしまった。その後、パソコンのメールを確認すると、そのホテルから連絡が入っていた。そこには、水道管が壊れたので、あなたの宿泊の日に営業できない、とのこと。だから立地や料金の似た姉妹ホテルのほうに予約を移しておきました、と続いていた。わりあい早めの連絡だったので、十分に対応できたのだが、これも旅ならではのハプニングだろうか。

 ホテルに到着し、夕食をとり、部屋でネットができたということもあって、寝たのは夜12時くらいだった。

 翌朝、7時半には起きた。そして9時にはホテルを出発した。とりあえずプラハの街を歩いてやろう、と。空はまたしても晴れていたが、思ったよりずっと寒かった。到着したときはかなり温かかったので、少し軽く見ていたのだけれど、その日は最低気温がマイナス6度と、寒いほうだった。加えて風もあったので、体感としてもっと寒かったかも。
 ホテルからまっすぐ歩いていくと、ある大きな川にぶつかった。モルダウ、である。交響詩『わが祖国』のモルダウ、合唱曲でもあるモルダウ。モルダウがプラハを流れていると知ったときは、またしても妙な興奮に襲われたものだった。ただ、川は実際少し汚かった。また思ったよりも近代的に整備されていたので、若干の興ざめは否めなかった……。

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 それでも、だんだんと陽が昇ってきて、水面にチカチカと光が走るのを見ると、さすがに美しさを感じ得なかった。頭に、モルダウの曲がよぎる。そのような心地で、ゆっくりと川沿いを歩いていると、向こう岸にプラハ城を中心とした旧市街地が見える。

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。カレル橋という大きな橋で、そちらへと渡った。橋の周囲には、多くの人が観光していた。日本人も多かった。プラハがここまで観光都市になっていたとは思わなかったので、少し、人の多さに残念に思うところもなくはなかった。これまでの都市がわりあい落ち着いていたせいもあったのだろう。
 それでも、やはり街は綺麗だった。いかにも、「ヨーロッパ」という景色が広がっていた。

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 カレル橋の近くに、「スメタナ博物館」という『モルダウ』を作曲した人の博物館があって、そこに立ち寄った。ベドルジフ・スメタナ、という音楽家とは、僕が中学1年のころに音楽の授業で知り合った。そのとき聴いた、『モルダウ』の印象が忘れられず、今でも好きな曲の一つでもある。博物館に入ると、客は自分だけだった。街にはあんなに人がいるのに、博物館には立ち寄らないのだな、と不思議に思った一方で、誰もいないゆっくりした状況に、嬉しさもあった。日本語の説明書も置いてあったので、若干の違和感もなくはなかったが、ずっと楽に館内を回ることができた。
 途中、気を利かせてくれたのか、学芸員の方が、『モルダウ』を流してくれた。窓からはモルダウが臨んでいる。モルダウを眺めながら、『モルダウ』を聴く、という何とも贅沢なロマンを感じるしだいだった。

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 一通り街を歩き、お土産屋などにも立ち寄ったのだけれど、あまりにロシア語を話す人たちが多いのに驚いた。おそらくはロシア語話者の観光者が多いからだろうが、お店の人も流暢にロシア語を操っていた。それを聞いていると、僕もロシア語を話してみたくなったものだが、英語で話しかけられるので、仕方なく英語を使うしかなかった……。
 人が多かった、ということも当然だが、ここにきて、少し旅の疲れが出始めた。観光中は、キエフで地下鉄を使ったとき以外は、まったく交通機関を利用せず、ずっと徒歩だった。しかもブーツで石畳の上を歩くものだから、通常よりも足への負担はかかる。戦闘不能、という状況にはまだまだだったけれど、明らかに足取りが遅くなっていることに気付いた。心は疲れていないのに、でも足は思ったより正直だった。夕方に夕飯を取り、ホテルで休憩した後に、また散歩でもしようか、と思っていたのだけれど、ホテルで「少し」の休憩のつもりが、起きたらもう夜中だった。

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2011年03月04日

はじめての一人旅―ワルシャワ~クラクフ編

 3月3日。7時起床。支度をして、9時前にはチェックアウトした。まずはワルシャワ中央駅に向かい、クラクフ行きの切符を買う予定だった。中央駅の正面が工事中なため、どこから入ればよいか困惑したけれども、何とか購入まで済ませられた。しかしながら、果たしてこの切符が指定席なのかどうかは、分からないままだった。

 ワルシャワを14時10分に出発する予定になったので、数時間時間ができた。とりあえず荷物をロッカーへ預け、前日行っていない新市街地を目指した。この道の途中には二つの大きな公園もあるということだったので、散歩もかねて歩くことにした。
 ここの道も広かった。平日の午前中ということもあってか、人はまだらで、いるのも年配の方が多かった。静かだった。本当にここが首都だろうか、というほどに平穏な道だった。この日も晴れていたということもあってか、平和な時間の流れだった。

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 一通り散歩をしていると、すぐ近くが旧市街地だということに気付いた。昨日行ったから、という理由が脳裏に浮かぶはずもなく、僕は吸い寄せられるように、ふらふらと旧市街地に出てしまった。印象は変わらなかった。僕が詩人なら、「ワルシャワ!」という詩を書きたい、そう思わせるような感慨だった。

 そうやってワルシャワに思いを寄せても、時間はやって来る。そろそろお別れだ、と駅へと足を向けた。

 駅について、ホームに着いたときに、再び不安が過ぎった。果たしてこの切符は指定席なのかと。切符には、二等、としか書いておらず座席らしい表示はなかった。まあ何とかなるだろう、と楽観視してホームで待った。
 待っていると、突然袖を引っ張られた。ん!?と思って振り返ると女の子が、コップをこちらに突きつけて、知らない言語でわめいていた。お金をせびってきたのだった。女の子は、浅黒い色をしていた。おそらくロマ(ジプシー)だろう、そう思った。ヨーロッパ、特に東欧でよく生活しているという彼らに、初めて会った。噂には聞いていたので、その瞬間はいささかの驚きを覚えたけれども、言葉が分からないふりをして、適当にやり過ごした。

 話が飛んだ。列車がやって来た。すると乗客たちが一斉に走りだし、入り口に向かって突進していく。何だ何だ、と思ったときには、理由が分かった。席が自由席だったのだ。と気付いたときは遅く、席を見つけるのは難しかった。座席はクーペのように、部屋で別れていて、一部屋6人がけだった。ある部屋は、柄の悪そうなおじさんたちがお酒を飲みながら踏ん反り返っていたので、誰も入ろうとしなかった。さすがの僕も、それには躊躇して、別を探し、何とか平和そうな部屋に入った。
 ワルシャワからクラクフへ向かう道は、ずっと田舎道だった。まるで絵画や映画に出てきそうな、ヨーロッパの田園風景ともいうものを目にすることができた。列車の中では、ちょっと眠ったり、本を読んだりしていた。
 ワルシャワを経ってから、3時間半が経過した。列車はクラクフに到着した。予約していたホテルを探し、近くのデパートのケンタッキーで夕食を済ませ、21時には就寝した。なぜこんなに早く眠ったか?それは翌朝6時半の列車に乗るためだったからだ。

 4日。4時起床。ゆっくりと支度を済ませ、6時には駅にいた。切符はあらかじめ買ってあったので、パンを買い込んで、ホームへ向かった。行き先は、オシフィエンチムというところ。ドイツ語で、アウシュビッツ。かつてナチス。ドイツの強制収容所として多くのユダヤ人などが連れていかれたあの場所である。

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 アウシュビッツ行きの列車は、延々と田舎道を行く。あまりの田舎具合に、妙に懐かしさがこみ上げてきたのは不思議なことだろうか。乗客は、自分を入れても5人くらいだった。平日の早朝だから仕方がない。
 結局、列車の中には2時間くらいいた。予想以上に遠かった。クラクフから54キロで、加えてローカル線だったからということもあったろう。外の風景を眺めたり、いろいろと思いを巡らせたりしても限界があったので、本に走った。いつの間にか『人間失格』を読み終えていた。

 アウシュビッツに着いた。収容所だったところへはバスが通っているということだったが、歩いても20分くらいだという。――歩いて行こう。そう思ったのは、この町の空気を吸いたいのと、歩いて到着する際の感動を得んとしようがためだった。歩き出した。しかし、迷った。果たしてこの道でよいのだろうか、という不安が過ぎった。田舎なため、周りには民家くらいしかない。だんだんと不安をかき立てられたので、思い切って近くのお婆さんに聞くことにした。
「すみません、博物館(収容所)はどこですか?」(英語)
「(指で示しながら)あっち」(ポーランド語)
と言うので、向こうですね、とこっちも手で方向を示す。
「そうそう、ここを10分くらい歩いて、右に曲がるんだよ」(ポーランド語)

ポーランド語が分かる!実はお婆さんが使ったポーランド語の単語がほとんどロシア語に似ていたのだった。十分に理解したので、行き先へと向かった。

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 到着した。早速中に入った。入り口には「働けば自由になる」というスローガンが掲げられていた。集団の見学客がいたけれども、中は静かだった。中にある一つ一つの小屋が博物館になっていて、順々に回っていった……。

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 悲劇。悪夢。そんな言葉じゃ済まされないだろう。目を背けたくなる写真ばかりだった。まるでアフリカで飢餓に苦しむ子どもたちのような姿があった。しかも子どもだけではなく、大の大人の姿も。労働している写真。集団リンチの写真。処刑の写真。銃殺される前で、目隠しをして直立している人に、銃口が向いている。直立したまま倒れる姿。後ろの壁には血が飛び散っている。おびただしい数の遺体たち。焼かれ、埋められている写真。
 写真だけではない。ここに収容されていた人たちが実際に使っていた生活用品が展示されていた。眼鏡、衣服、靴、鞄、ブラシ、食器、義手、義足、松葉杖……。加えて、ガス処刑のためのガス缶も。しかもゴミ処理場のように、山積みされているのだから、威圧感が半端ではない。あるフロアは、一体に靴が山積みされていて、そこに立ったときに、僕はこの靴たちに囲まれている気がして、ある種の恐怖に駆られた。何か収容され、処刑された人たちの情がこもっている気がしてならなかった。そのとき、僕は一人だったのだけれども、その何か僕を圧迫する力に、長時間堪えることはできず、ひと目見ると、その場から立ち去った。

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 そして、処刑場だ。ここで幾人もの人が執行されたと思うと……。ここで強制労働に従事していた人たちは、ここで鳴り響く銃声をどう思っていたのだろうか。想像するのは失礼かもしれない。
 おおよそ、ここに収容された人たちは、「人間」として扱われていなかった。男女問わず真っ裸で一箇所に集められて、労働もそうだし、ある者は人体実験にも使われていたという。そして、ここに人を集め、いいように扱ったのもまた人間である。ここではドイツが悪いとか、ヒトラーがいけない、とかいう話は別だと思う。これは人類の歴史である。ありきたりな言葉かもしれないが、実際にアウシュビッツを見たものとして、こう主張したい。人間、その気になれば何でもやりかねない、という教訓だと思うのだ。
 とある部屋に、以下のような文言が書いてあった。

「歴史を思い出さない人間は、もう一度その歴史を経験しなければならない」

アウシュビッツで出会ったこの言葉は、ただただ重い。


 正午も過ぎたころ、僕はアウシュビッツを後にした。また2時間ほど列車に揺られ、クラクフへと戻った。その間、『ヴィヨンの妻』『愛と美について』の太宰の2作品を読了した。なぜ今太宰を読むのかは、単なる気まぐれにすぎない(と思っている)。

 クラクフ駅に着き、明日のプラハ行きのチケットを買った。明日の午前に出発し、乗り換えを経て、夕方到着の予定。

 さて、クラクフ。ポーランド王国の全盛期のころの首都が、ここの旧市街地である。門から入場し、街の中心である広場に抜ける。人は、ワルシャワよりか圧倒的に多かった。クラクフは、第二次世界大戦の際に、奇跡的に災難を逃れたので、今も昔の姿を現している。そう考えると、妙に胸が高鳴る。

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いくつかの修道院を横に、街の奥に入っていくと、丘にヴァヴェル城というお城が待ち構えている。城に登るとクラクフの街の風景を見渡すことができる。またしても、絶景ポイントとめぐり会ったというわけだ。
 
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 しばらく、ヴァヴェル城の中を歩いた。全く同じ場所に、かつて王国の人たちも立っていたと思うと、ロマンを感じざるを得ない。

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 しばらく旧市街地を当てもなく散歩した。お土産を買って、ポーランド料理も食べ、そして今に至っている。駅の近くに、超現代的な巨大ショッピングモールがあって、そこのスターバックスから記事を打っている。こうやって現代と過去とを見事に、違和感なく融合できているのはなぜだろう。これはワルシャワも同じこと。ポーランドには、今までにないくらいの強烈な印象を得たので、後日また感想を書きたいと思う。ロシアの次に興味の沸く国が、まさかポーランドとは思いもしなかった……。

 旅は続く。

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2011年03月03日

はじめての一人旅―キエフ~ワルシャワ編

※基本的に旅の事実を時系列に書いていきます。途中途中の印象については、後日また書いていきたいと思います。

 3月1日。朝6時起床。前日は早く寝たので、目覚めは良かった。8時にはホテル内で朝食を済ませ、9時前にはチェックアウトした。
 
 この日最初に向かったのは、「チェルノブイリ博物館」。キエフの中心街からは少し離れてはいるが、地下鉄で行けばさほど時間は要さなかった。開館時間ちょうど10時に入場。客はほとんどいなかった。
 中は手の込んだ装飾で、いかにも「見せる」感じのする展示具合だった。半端のない数の写真や、実際に使われたマスク、そのほか作業員の名簿や身分証など、関係者のものが並べられていた。
 しばらく館内を歩いていると、日本語の文字が飛び込んできたので驚いた。そこには、同じく被爆に苦しんでいる広島の方々がチェルノブイリの被害者に支援をしているという趣旨のものがあった。原爆の悲惨さを描いた詩や原爆投下当時の新聞などなど、日本に関連するものがたくさん展示されていた。また、展示物の説明や補足をするタッチパネル式の機械が設置されていたのだが、それらは全て日本製のものだった。博物館自体の支援も日本が全面的にやっていることが伺えた。
 最後の中央ホールには、被爆した子どもたちの写真が一面に張られていた。またその子どもたちが持ち寄ったおもちゃも並べられていた。さらには、チェルノブイリから発した放射性を帯びた雲がどのように移動したかを示した映像があったのだが、そこには、ヨーロッパ全土を覆ってしまうほどに大規模な雲の変遷があった。あまりにも直接的過ぎる説明映像は、僕の想像をはるかに上回っていた。
 チェルノブイリの事故に加え、日本に原爆が落とされたという事実が、一気に僕の頭の中に押し寄せ、いやおうなしに真剣な思考を強いた。

 そうやって考えていると、だんだんお腹が空いてきたことに気付いた。ちょうど昼前だったので、街の中心にあるウクライナ料理屋に行くことにした。ボルシチ、サラダ、肉料理を頼んだけれど、価格はお手ごろだった。また、ソ連圏では珍しく、サービス対応の良いところだった。お店の雰囲気も良く、味もかなり美味しく、キエフ最後の食事として、十分に満足のいくものだった。

 列車の時間まで、まだ時間があったので、レストランの近くのアンドレイ教会の周りを歩いてみた。だんだんと坂を上っていくと、またしてもキエフ一体を見渡せる高台に到達してしまった。再びドニエプル川を中心とした絶景が目を虜にした。

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 その後、ワルシャワ行きの列車が発車する駅へと向かい、その中でお土産をいくつか買い、近くのマクドナルドでブログを更新した。

 時間も16時前になった。お菓子とパンと水を買い込み、列車に乗り込む。車両は古かった。しばらく部屋で待っていると、50~60歳くらいのおじさんが入ってきた。16時37分。ワルシャワ行きの列車はキエフを発った。このおじさんは、最初のモスクワ、キエフ間のおじさんと違って、特に話そうという感じではなかった。だから、お互いに適当に時間をつぶしあい、暗くなったら暗黙でお互いに寝るという体裁だった。とりあえず、僕は「青空文庫」の中に入っていた太宰治の『人間失格』をなぜかずっと眺めていた。ふと気がつくと、おじさんが寝始めたので、僕も寝る支度をし、21時前には、真っ暗な状態で眠りについていた。
 朝の5時前だったろうか、突然起こされた。国境に入ったのだ。するとウクライナ側の税関員がやって来て、持ち物の検査などを始めた。おじさんのほうが先で、アルコールはないかな、とか冗談を言いながら、その女性の税関員は調べていた。その後、自分の番だ。彼女がウクライナ語で話しかけてきたので、え!?という顔をすると、おじさんが
「その子は、ロシア語を話すよ」とフォローを入れてくれた。すると税関員が、
「どこから来たの?」とだけいうから返答に困る。日本からか、ロシアからか、キエフからなのか分からない。とりあえず、キエフから、と答えると、
「どこに住んでいるの?」というので、少し安堵しながら、モスクワ、と答える。
「モスクワ!?国籍は?」日本だ、と返す。
「はらあ〜変わっているわね〜」といいながら、検査は終わった。

 その2時間後くらいに、今度はポーランド側の人間がやって来た。全く分からないポーランド語が耳にせまり、とりあえず、聞き取れたパスポートという言葉を信じて、パスポートを手渡した。そのままスタンプを押され、入国が完了した。
 列車に乗ってから、17時間くらい経っただろうか、ようやくワルシャワに到着した。もっとも、列車自体、途中で止まったりしていて、急行ではなかったので、これだけの時間がかかったのだろう。
 
 時計を見ると、ポーランド時間の午前9時過ぎ。日本との時差は8時間。とりあえず、駅構内のマクドナルドで腹ごしらえをしようと目論む。が、しかし、早速言葉の壁にぶち当たる。久しく英語を使っていなかったということもあったが、まずメニューがポーランド語のために、上手く読めない。とりあえず、共通語であろうメニューの名前を言ってみたところ、ランチメニューですね、と自分の意と反して勝手に注文されてしまった……。ただ、いや違う、という勇気も気力もなかったので、そのまま注文を受け入れることになってしまったのだが……。

 空は快晴だった。通りに出ると、何やら妙に見慣れた建築様式の建物がそびえたっていた。

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何でもスターリンがプレゼントした建物だそうで、通りでモスクワ大学と同じスターリン様式だということが腑に落ちた。

 最初に僕は、旧市街地にある、ワルシャワ旧王宮を目指した。近代的なつくりの駅周りから離れて歩くと、だんだん歴史的な街並みが目に入ってきた。旧王宮に行くには、「新世界通り」、ついで「クラクフ郊外通り」という道を通る必要がある。2、3キロあるその通りをゆっくりと歩く。第二次世界大戦で一時は、壊滅的に破壊されたという街は、実に見事に再現されている。広々とした通りに、伝統的な建築様式。まさしく絵本で読んだ「ヨーロッパ」のイメージそのままである。宮崎県の田舎者が、こんなところを歩いてよいものか、と腰が引けるくらいに、「出来過ぎた」街並みだった。

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 あのコペルニクスの像に、ワルシャワ大学、ヴィジトキ教会に、大統領官邸など、豪華な建造物が立ち並んでいた。大統領官邸などは、さすがに警備が完璧で、銃を携帯した警官が、入り口で待機していた。

 旧王宮に着いた。

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 拙い英語でチケットを買い、城内を見学する。復元された部屋の装飾を見たり、そのほか絵画が展示されていたので、鑑賞したりするなど、ゆっくりと回った。城内に、昔の写真が展示されていた。戦争で破壊される前のものと、破壊尽くされた状態のものが、並べられていた。何かのビフォ・アフターのように表されたその写真を見ると、何とも言えない感情に襲われる。長い歴史のあったものが、いとも簡単に爆弾で壊された。けれども、今は昔のように復元された。……。

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 旧市街地をしばらく散歩した後に、今度は「ショパン博物館」を目指した。受付へ行くと、1時間待ってくれ、と言われたので、近くの国立博物館へ行くことにした。ここには、いくつもの絵画が収められており、全部をゆっくり見ていたら日が暮れてしまうようだった。だから、できるだけさっとだけ見て、そそくさと「ショパン博物館」へと向かった。

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 外観は17世紀に立てられた古い宮殿だが、中は完全にモダンな造りとなっていた。あちらこちらにタッチパネル式の機械が置いてあり、客は随時利用することができる。BGMに『エチュード「革命」』が流れたりするなど、完全にショパン一色である。また、ショパンの関連物を展示している一方で、当時の時代背景を説明するなど、非常に分かりやすい構造になっていた。
 また、博物館の隣には、「ショパン・ストア」というお店があって、ショパンを中心としたワルシャワのお土産が売ってあった。もちろん、僕もショパンにあやかって、いくつかのものを購入した。

 時間も17時近くを回ってきたので、ホテルへと向かった。重い荷物を持ちながら、一日中歩き回った後の、5キロの道は遠かった。ホテルまでに、結局へとへとになりながら到着した。予約どおりスムーズにことが進み、チェックイン。その後夕食をとり、早めに部屋へと戻った。空は、もう赤く赤く染まっていた。

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2011年03月01日

はじめての一人旅1-モスクワ~キエフ編

 27日夜9時過ぎ。僕はキエフ行きの車両に乗り込んだ。おや日本人か、と驚いた駅員さんは、部屋の場所が分からない僕を丁寧に案内してくれた。部屋に着くと、そこには中年のロシア人のおじさんがいた。スーツに身を包み、険しそうな表情で座っていた。列車が動き出すと、お互いに寝る準備をはじめた。すると、おじさんが突然、ロシア語は分かるのか、と聞いてくるので、分かると答えた。出身はどこだと言うので、日本だと返すと、目が倍くらいの大きさになって、頭を抱えだした。「おお、日本人と同じ車両になるなんて、何て変わった旅だ」と言ったときには、もう表情に険しさは無かった。そこから僕らの会話ははじまった。
 おじさんは、日本については、それなりに知っていた。
――そろそろサクラが咲くよな?
――日本車は最高だよ。俺はマツダと日産に乗っている。
――富士山は綺麗だよな
――日本はラッシュのときに、乗客を車両に押し込む「専門の人間」がいるんだよな?
 一般的に知られていることのほかに、なぜ日本が戦後急速に経済成長を遂げたのか、などのことも話した。学生時代に哲学を専攻していたという彼の話は、終始一貫して、知的な人のそれだった。彼との話は、興味深い内容が多かった。
「日本人は旅行が好きだよな〜」
「おそらくそうですね」
「いや、おそらくじゃない、確かに、だよ。だって、だいたい『赤の広場』の周りで集団で写真を撮っている人たちがいたら、だいたい日本人だもんな。しかも年寄りが多い。」
「彼らは退職後、暇なんですよ。年金とかでお金もあるでしょうし」
「ロシア人も退職後は暇さ。でも金が無いんだ。年金は少ないしね。俺の母親は月に8000ルーブル(2万円と少し)くらいしか貰ってない」

「日本という国は本当に不思議な国だよ。ロシア人のほとんどが憧れているよ。俺らからしたら、まるで『おとぎ話の国』だよ。隣国なのに、すごく遠いしね。」
 彼のこのような日本観は、おおよそのロシア人の意見を代弁しているものなのかもしれない、と思いながら真摯に受け止めた。
 有益な会話のほかにも、彼にはずいぶんとお世話になった。国境を越える際に、手続きをしないといけなかったのだが、そのときも書き方など丁寧に教えてくれた。またキエフのことについても、いくらかアドバイスをいただいた。
 
 朝の6時くらいに税関員にたたき起こされて、もう一眠りをした後、ウクライナ時間の10時にキエフに到着した。僕はまず、翌日のワルシャワ行きの切符を買いに、駅内を奔走した。インフォメーションで聞き、所定の窓口を探した。その際に、キョロキョロしていた僕を見かねて、普通のおばさんが、どうしたの、と声を掛けてくれて、道案内をしてくれた。そのような助けもあって、わりあい難なく切符を購入することができた。

 一安心した僕は、キエフの中心地である「独立広場」を目指した。地下鉄を利用したのだが、モスクワの地下鉄とほとんど同じだった。モスクワのとある駅と勘違いしそうなくらいに似ていた。

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 「独立広場」に着いた。広々とした空間と快晴の空模様に、気分は一気に高まった。しかし、そんなハイテンションはすぐに終わった。
写真を撮っていると、突然着ぐるみのおじさんがやって来て、僕のカメラを取り上げる。おい、と思ったときには、写真を撮ってあげるからといいながら、撮影を始めだした。これは金を取られるな、と察したが、すぐに終わるだろうとあまり抵抗はしなかった。近くの場所を背景に5枚くらい撮られたところで、もういいと言った。僕は無表情で、いくらだ、と聞く。すると、500ルーブル(1400円くらい)だと言うではないか!少しカチンときた僕は抗議を始めた。
「これは多すぎる」
「これより少なくは、絶対できない。」
「というか、なぜ最初に金のことを言わなかったんですか?」
「これが俺の仕事だから」
「残念ですが、ルーブルは持っていません」
「それなら、120グリブナ(1200円くらい)でいい」

 これ以上抗議しても時間の無駄だし、騒ぎを大きくしても面倒くさいと思ったので、120グリブナを渡した。結果値切ることに成功しているわけだし、苦肉の策だった。

 まあ、一人旅の洗礼だ、と開き直って、僕はキエフの街を歩き出した。
 「独立広場」からまずは、ソフィア聖堂へ向かった。特に中に入る気もなかったので、外観をぐるりとまわった後に、近くにある「黄金の門」を目指した。モンゴル軍に攻め入れたときに、あのバトゥ・ハンも通ったというこの門は、個人的にたいへん興味深いものだった。モンゴル軍に破壊されたこの門は、今は廃墟を護るように保存されていた。

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 ホテルの時間が近づいたので、それを目指す。駅から近く、大きな通り沿いに立地しているため、すぐに見つかった。あらかじめネットで予約を入れていたので、予約番号を提示すると、受付のお姉さんに、この番号は違うと言われた。一瞬あっけに取られて心配になったが、パスポートを見せると、あなたの名前の予約があるわ、と言われ、何とか予約どおりの部屋を取ることができた。
 
 一時間くらい部屋で時間をつぶした後、今度はペチェールスカ大修道院(世界遺産)へと足を運んだ。駅からはトロリーバスで行くとよい、と書いてある距離を僕は徒歩で行った。街の中心から離れたその場所は、時間の流れが遅く、のどかな雰囲気が広がっていた。
 しばらく足を進めていると、向こう側に大きな教会や聖堂が目に入る。ほどなくして到着すると、敷地内を歩き始めた。人は少なく、静かな空気だった。

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 一通り建築物を見てまわり、別のルートから引き返そうとして彷徨っていると、目の前にキエフの街の風景が飛び込んできた。そう、この大修道院は高台に位置していたのだ。ドニエプル川を中心としたその光景に、しばらく引き込まれていた。

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 別のルートを、と思っていると完全な裏道に出てしまった。人気は全くない。雪に包まれたその場所を、僕はゆっくりと散歩した。

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 晩飯を、友人に薦めてもらったレストランで済ませた後、ホテルまで歩いて戻ることにした。2、3キロの距離だったが、街の雰囲気を嗅ぎとるつもりで歩いた。
 途中、ウラジーミル聖堂という教会に出くわした。フレスコ画が綺麗とあったので、入ることにした。すると、ちょうどお参りの時間だったこともあって、教会内には聖歌が流れていた。人も決して少なくなかったが、教会独特の雰囲気がそこにもあった。ロシアでも感じたあの感覚である。30分くらい、その穏やかでやさしい空間にいた。何か身が洗われたような気になったので、偶然ではあるまい。

 そのまま部屋に戻って、早いことに21時前には就寝した。

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2011年02月20日

リャザンという街

 日曜日は、リャザンという街へ行きました。モスクワからバスでおよそ3時間の距離にあるこの街は、リャザン公国と呼ばれたころから存在する歴史的な場所です。リャザン、という名が歴史に登場したのが1095年だといいますが、モスクワのそれが1147年ということを考慮すれば、その古さがわかるかと思います。

 日帰りということもあって、リャザンの中でもクレムリンだけを観光しました。

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 ロシアのクレムリンといえば似たような建物が多いので、激烈な感動というものはありませんでしたが、文句のつけようもない天気に風景が映えて見えたおかげで、とても鮮やかな印象が残っています。

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 人口が50万人くらいの街ということもあってか、街には和やかな雰囲気が流れていました。時間がゆったりと過ぎる、という表現をすれば伝わるでしょうか。明らかにモスクワよりかはのんびりとした空気がそこにはありました。

 ひさびさの遠出でしたが、本当に良い時間が過ごせました。当たり前のことですが、同じロシアであっても、首都モスクワを離れれば街の雰囲気は異なります。他の街の空気も吸ってみたいな、という願望が少しわいたしだいでした。

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