【ロシア】200日の漂流―モスクワ大学留学記2010-2011

2010年08月03日

スパイと日本−ラストボロフ事件より

 ロシア、ソ連、といったときにスパイを思い浮かべる人は少くなくないと思う。先日のロシア人スパイ事件も記憶に新しい。また、ジェームス・ボンドの映画などスパイなんて外国のものだと思われがちである。けれども、日本においてもかつて「ラストボロフ事件」(1954年)というソ連のスパイの亡命を皮切りに、日本における諜報活動事情が明るみになったという大事件があった。
 ここで気になるのは、日本国内での諜報活動である。それについて、少し触れたい。第二次世界大戦敗戦後、多くの日本兵がシベリア中心にソ連域内で抑留されていた。いく年かの重労働の後、ようやく解放されるわけだが、その際に日本人の中にスパイにしたて上げられた人物がたくさんいたという。したて上げられた、といったが、どちらかといえば、戦争の容疑と棒引きで、やむを得ずスパイになった人が多い。それ以外にも、ロシア語の翻訳の仕事を頼まれて続け、そのままスパイ活動に加担していった学者や、ロシア美女(スパイ)に「騙されて」、取引としてスパイになった新聞記者など、多様なプロセスを経ている。一番の大物では、大物政治家の後援会の事務局長を務めた人もいるというから驚きだ。

 私は、この「ラストボロフ事件」を、三好徹『小説ラストボロフ事件』(1971、講談社)という作品ではじめて知った。


 この作品には「小説」という字句が題名に付されているが、じつは、小説的な部分はきわめて少い。終章の世良元警部の推理を除いては、すべて筆者が調べた事実や入手した資料によりかかっている。登場人物も、外国人はすべて実名である。ただ、日本人については、あくまでも小説として処理した。しかし、チャイカもネロもフジもすべて実在したスパイで、かれらの行動はこの作品に書いたとおりであった。それはかれらが読めばよくわかるであろう。執筆にさいして筆者は、小説よりも、むしろノンフィクションをつづりたいという衝動にかられたほどであるが、それを断念しなければならなかったのは、現存している関係者があまりにも多いという理由に因る。


 これは、その小説の「あとがき」である。とりわけ最後の一文が、このスパイ事件を物語っているように思える。
 この作品には、事件を取材している新聞記者が多くの場面で登場するが、記者の心得を語る上司の存在など、かなりのリアリティがある。というのは、やはり三好徹が新聞記者出身だったということが大きいだろうが、そのような点でもたいへん面白いものだと感じた。もちろん、本筋もテンポよく進んだりと、小説としても読み応えのあるものだった。


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posted by Itta at 14:52| Comment(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月04日

日露関係の発端

 ここ二日、更新していませんでした。理由は…新歓活動です(汗)何だかんだで、大学生なので、このような行事が付きまといます。早朝から深夜まで、いろいろ作業をしていました。と言っても、単なる言い訳に過ぎなく、毎日更新される方々には、頭が上がりません。

 さて、今回は日露関係の歴史について述べたいと思います。歴史といっても、日露戦争とか、近代ではなく、もっと前の日本とロシアが出会った、江戸時代ごろの内容です。

 ロシア帝国がシベリアに進出する16世紀後半まで、ロシアの東端はウラル山脈でした。イェルマークをはじめとするコザック民族たちにより進出ははかどっていった訳ですが、目的といえば、黒豹などの毛皮獣の獲得でした。当時、そのような毛皮が、フランスなどの西欧では、ロシアの水準とは桁が違うかなりの高値で取引されていたといいます。つまり、毛皮は重要な資金源だったのです。しばらくは、シベリアの原住民を圧迫しながら、黒豹を獲らせ、一方で、広大なシベリアをどんどん東進していきました。毛皮を取り扱う商人や労働者のための町は作られましたが、食料不足に大変悩み、餓死者が出るなど、シベリアは、行ったら戻れないかもしれないという陰鬱な暗い印象を与えていたといいます。それでも、一攫千金を目的に黒豹の獲得は行われていきましたが、乱獲したことにより、黒豹が減少してしましました。
 そのような中、カムチャッカ辺りの海峡で、ラッコが捕れるということが分かると、そちらへ進出していくことになります。しかし、それでも食料を本国から運び込むのは大変効率が悪いのです。そこで、ロシアは中国に接近して、イルクーツクとモンゴルのウランバートルを結ぶ通商路がひらかれました。ただ、中国に、毛皮の需要がなく、カムチャッカなどの極東に物資を運び込むには、やはり遠く、問題は解決されませんでした。

 ここで、日本、という極東にポツンと浮かぶ、豊かな文明圏の存在が知られます。日本は地理的に最適で、かつ農業国であり、食料が期待できる、最高の国だったに違いありません。そこから、ロシアから日本へのアプローチが始まるのです。当時、日本の商人は、千島列島辺りまで、やってきており、ときに漂流して、島々に流れ着いていたそうです。そのような情報があったものだから、ピョートル大帝は、漂流民を発見したら、都に連れてこい、という命を出しました。伝兵衛という大阪の商人がピョートルに、大黒屋光太夫がエカチェリーナ2世に、それぞれ拝謁した背景には、このようなものがあったのです。

 つまり、極東開発(海獣を効率よく獲得していくこと)には日本の支援(食料供給)が必要だったということが、日露関係の始まりだったというわけです。
 おや、と思う人もいるかもしれません。今も昔も本質的には関係性が変わっていないのだから。現代ロシアも、極東開発のために、日本の技術支援を欲しています。地政学的にみたときに、その関係性にはある種の一貫性があります。ただ、日本とロシアが出会ってから、まだ300年ほどしか経っていないことを考慮すると、関係性が変わらないということも大いに頷けます。


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posted by Itta at 13:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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