3月5日。4時起床。目覚ましは6時に仕掛けていたのだけれども、なぜか目が覚めてしまった。ボーっとしながら、チェックアウトの支度をして、7時に朝食。その後チェックアウトして、荷物を駅に預ける。出発まで1時間以上あったので、旧市街地を散歩することにした。
朝の8時ごろだから、お店も開いていないし、人も少ない。でも散歩には最適だった。程よくひんやりとした空気に、朝日がさす。心地の良い気分のまま、旧市街広場を抜け、結局ヴァヴェル城の丘まで行き着いてしまった。思いっきり空気を吸った後、踵を返した。
帰りの道は、ふと今後について考えてみた。今クラクフの旧市街地を歩いているということさえ忘れるほどに、思考に熱中した。いや熱中できた。座ってじっと考えるよりも、歩いて考えるほうが、ずっと頭が働くのでは、と思ったときに、多くの詩人や音楽家、哲学者が歩きながら思索していたことを思い出した。
駅に戻った。列車の時刻表を眺めて、確認していると、あるおじさんに「アウシュビッツへ行くのかい?」と問われたので、いいえ、と返した。その数分後である。今度は別のおじさんに声を掛けられた。
「どこに行くんだい?アウシュビッツ?」
「いえ、カトヴィツェ(プラハ行きの乗り換え駅)です」と口走ってしまった。
俺の車でどうだい、というので、ああタクシーの勧誘か、と気付いた。
「君日本人だよね?俺はよく日本人をアウシュビッツへ連れて行っているのさ。」と言いながら、コンニチハ、アリガトウと日本語を披露してくる。しかも、
「アウシュビッツの博物館にいるミスター・ナカタニ(実際に博物館で働かれている中谷剛さんのことです。旅行本にも紹介が書いてありました)とは知り合いなんだよ。」とまで言ってくる。
「でも僕はもう切符を買っていますので、車は結構です」と返すと、さすがに驚いたみたいだが、
「俺の車のほうが早く着くぜ。今なら200(5000円くらい)ズウォティだよ。かなりお得なはずだよ」と引き下がらない。
「正直言うと、今ポーランドのお金を持っていないのです。だって、もう列車に乗るだけだから必要ないんですもの」とこちらはとどめをさしに行きます。
「ユーロも、ドルもかい?」
「ええ、全く持ってないです。(ルーブルならいっぱい持ってるんだけどw)」と突っ返した。
もう面倒くさいにもほどがあったので、もう行くから、と言ってその場から立ち去った。そして駅にいると、また絡まれかねなかったので、予定より早めにクラクフを発った。
9時5分にクラクフを出発した列車は、11時前にはカトヴィツェに着いた。プラハ行きの列車は12時15分だったので、しばらく駅で待つ必要があった。
また時刻表を眺め、確認をしていると、再び声を掛けられた。今度は宗教の勧誘だった。ただまあ、平和的な勧誘だったので、話を聞くだけで何とかなった。駅の待合場は、人も多く、声も掛けられかねられなかったので、30分以上も時間があったがホームで待つことにした。
人は少なかった。空いているベンチにゆっくりと腰を下ろした。気温はおそらく5度くらいだったろうが、陽が照っていたので暖かかった。風もあった。僕の黒のコートが日光を吸収して、熱を持ち、それを風が冷やしてくれる。こんな春に近い感覚は久々だった。今まで、モスクワのシャレにならない冷たい風に吹かれていた身としては、もう天国に近かった。そのまま眠ってしまいそうだった……。
列車がやって来た。早速乗って、ゆっくりしていたのだが、切符を切りに車掌さんが来たときに、違う座席に座っていることが発覚。あわててちゃんとした席にたどり着いた。はじめ、僕はブダペストへ行ってしまう車両に乗っていたらしい……。恐ろしい。
身の周りも落ち着いてきたので、今こうやって記事を書いている。
列車では終始一人だった。一つの部屋に6つ座席があったのだが、ほとんどの時間はポツンと座っていた。一区間だけチェコ人の人が乗ってきて、少しだけ話した。カトヴィツェからプラハまでは、およそ4時間半の旅だった。その間に、今度は『斜陽』を読了した。
プラハに着いた。もう夕方だったので、とりあえずホテルに直行する。――プラハのホテル、といえば少し大変な事情があった。
旅行前にネットで予約をして、安心しきっていたのだけれども、ちょうどワルシャワにいるときに、突然携帯に着信が入った。「○○ホテルですが……」といきなり流暢な英語が耳に飛び込んできたものだから驚いた。しかしながら、国際電話は通話料が高いので、すぐにプリペイドがなくなってしまい、電話が切れてしまった。その後、パソコンのメールを確認すると、そのホテルから連絡が入っていた。そこには、水道管が壊れたので、あなたの宿泊の日に営業できない、とのこと。だから立地や料金の似た姉妹ホテルのほうに予約を移しておきました、と続いていた。わりあい早めの連絡だったので、十分に対応できたのだが、これも旅ならではのハプニングだろうか。
ホテルに到着し、夕食をとり、部屋でネットができたということもあって、寝たのは夜12時くらいだった。
翌朝、7時半には起きた。そして9時にはホテルを出発した。とりあえずプラハの街を歩いてやろう、と。空はまたしても晴れていたが、思ったよりずっと寒かった。到着したときはかなり温かかったので、少し軽く見ていたのだけれど、その日は最低気温がマイナス6度と、寒いほうだった。加えて風もあったので、体感としてもっと寒かったかも。
ホテルからまっすぐ歩いていくと、ある大きな川にぶつかった。モルダウ、である。交響詩『わが祖国』のモルダウ、合唱曲でもあるモルダウ。モルダウがプラハを流れていると知ったときは、またしても妙な興奮に襲われたものだった。ただ、川は実際少し汚かった。また思ったよりも近代的に整備されていたので、若干の興ざめは否めなかった……。
それでも、だんだんと陽が昇ってきて、水面にチカチカと光が走るのを見ると、さすがに美しさを感じ得なかった。頭に、モルダウの曲がよぎる。そのような心地で、ゆっくりと川沿いを歩いていると、向こう岸にプラハ城を中心とした旧市街地が見える。
。カレル橋という大きな橋で、そちらへと渡った。橋の周囲には、多くの人が観光していた。日本人も多かった。プラハがここまで観光都市になっていたとは思わなかったので、少し、人の多さに残念に思うところもなくはなかった。これまでの都市がわりあい落ち着いていたせいもあったのだろう。
それでも、やはり街は綺麗だった。いかにも、「ヨーロッパ」という景色が広がっていた。
カレル橋の近くに、「スメタナ博物館」という『モルダウ』を作曲した人の博物館があって、そこに立ち寄った。ベドルジフ・スメタナ、という音楽家とは、僕が中学1年のころに音楽の授業で知り合った。そのとき聴いた、『モルダウ』の印象が忘れられず、今でも好きな曲の一つでもある。博物館に入ると、客は自分だけだった。街にはあんなに人がいるのに、博物館には立ち寄らないのだな、と不思議に思った一方で、誰もいないゆっくりした状況に、嬉しさもあった。日本語の説明書も置いてあったので、若干の違和感もなくはなかったが、ずっと楽に館内を回ることができた。
途中、気を利かせてくれたのか、学芸員の方が、『モルダウ』を流してくれた。窓からはモルダウが臨んでいる。モルダウを眺めながら、『モルダウ』を聴く、という何とも贅沢なロマンを感じるしだいだった。
一通り街を歩き、お土産屋などにも立ち寄ったのだけれど、あまりにロシア語を話す人たちが多いのに驚いた。おそらくはロシア語話者の観光者が多いからだろうが、お店の人も流暢にロシア語を操っていた。それを聞いていると、僕もロシア語を話してみたくなったものだが、英語で話しかけられるので、仕方なく英語を使うしかなかった……。
人が多かった、ということも当然だが、ここにきて、少し旅の疲れが出始めた。観光中は、キエフで地下鉄を使ったとき以外は、まったく交通機関を利用せず、ずっと徒歩だった。しかもブーツで石畳の上を歩くものだから、通常よりも足への負担はかかる。戦闘不能、という状況にはまだまだだったけれど、明らかに足取りが遅くなっていることに気付いた。心は疲れていないのに、でも足は思ったより正直だった。夕方に夕飯を取り、ホテルで休憩した後に、また散歩でもしようか、と思っていたのだけれど、ホテルで「少し」の休憩のつもりが、起きたらもう夜中だった。
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